2020/01/21
歌謡曲が好き
AI美空ひばり
美空ひばり
AIでよみがえる美空ひばり
改めて「AI美空ひばり」の功罪を考えてみる
昨年2019年の9月に放送され、12月に「楽曲」として発売され、そして大晦日に紅白歌合戦で発表と様々な物議を醸してきた「AI美空ひばり」もう一通り批判の声も聞いたし終わりかな?と思ったんですが、山下達郎氏がラジオで「冒涜」と発言したことで脚光を浴び、再度「炎上」した形になります。
山下達郎氏のラジオでは、その一言しかおっしゃっていませんので、「冒涜」がAI美空ひばりを作り出したそのものを批判しておられるのか、その技術的な側面を批判しておられるのか、商業的な楽曲として発売されたことを批判しておられるのかわかりませんし、当然それ以外の感覚的な問題だったり倫理的な問題だったりという複雑な気持ちを一言で言い表したのかな?とも思うのです。
昨年当サイトでもAI美空ひばりについては番組内容を紹介する形で記事にしております。
歌謡曲が好き
NHKスペシャル「AIでよみがえる美空ひばり」視聴で思ったこと
https://www.thursdayonion.jp/article.php?article=1208
この記事は公開当時はアクセスは多く頂いていない記事ではありましたが、12月には全記事中のトップのアクセスを稼ぎ出し、今年に入ってからも継続的にアクセスを頂いている記事です。当サイトにはコメント欄をつけておりませんので、読まれた方がどのような感想を持ったかはわかりませんが、どことなく気持ち悪く感じた「AI美空ひばり」の技術的な側面から書いた記事になります。
商業的な気持ち悪さ
多くの方が感じた気持ち悪さの最大は、これが商業音楽として世に出されたという面ではないかと思うのです。
オリコンチャートでは「あれから」は美空ひばりさんの「新曲」という扱いで、2020年1月13日付(2019年12月30日~2020年1月5日集計)週間ランキングでは10位を獲得しています。CDが売れない時代ではありますが、複数枚買いの期待できない歌謡曲楽曲で10位というのは商業的な成功と言えることでしょう。(ただしこの週1,794枚ではあり、翌週も1000枚程度ではありますが)つまり、紅白でのAI美空ひばりのパフォーマンスを見てCDを購入したという方が決して少なくないことを物語っています。
当サイトでは「美空ひばり」と「AI美空ひばり」は別の歌手であるという扱いにしています。これは美空ひばりさんが直接収録していない楽曲であること。また、アニメ声優が歌う楽曲などでも声優名義とアニメキャラクター名義は別の「歌手」として当サイトは扱っているのと同じ意味でもあります。
しかし、オリコン社はこれを同一名義、あくまでも美空ひばりさんの新曲であるとして扱います。AI歌唱は本人の声そのものであるというのは確かでもありますが、そういう観点は今後も出てくるのかもしれません。
「あれから」の収録楽曲は「シングルバージョン」と「NHKスペシャル・バージョン」の2トラック+カラオケです。そういう意味でもNHKの意図は明確で、紅白出場を前にCDを発売し、これが一定の枚数売れることを見越した上でレコード会社との楽曲販売の契約を行ったとも言えます。もちろん必要な時に必要な商品を提供するという意味では素晴らしいことです。しかし、最初から商業音楽として発売ありきで制作過程を番組として制作し回収するという「ビジネスモデル」として成立させた、本来視聴者からの受信料で制作するべきNHKの番組放送がNHKとその仲間達の錬金術として機能しているという批判も当然あるとも思います。
技術的な気持ち悪さ
私はコンピュータ技術者ですので、技術者目線であって、あえてヤマハ技術陣について批判する意図はないのですが、それは彼らも仕事として受けたことであって、多分NHKから説明されたであろう技術的に「美空ひばり」に新曲を歌わせることが今のボーカロイド技術でできるか?という技術面でできるはず、今はそこまで技術が発達したことを証明しようという、純朴な面があると思うのです。
なので私から見て彼らが一定のレベルで楽曲を発売できるまでの技術を証明したことは個人的には喜ばしいことと思っています。技術者は難題を解決する(それが「何のためか」はともかく)気持ちを持っていて、NHKの商業的な意味とは別なレベルでそれを成し遂げたとも言えます。
世間的な批判の一部には、もはや死者の声を復元しようとする行為そのものが烏滸がましい、技術面に溺れている、マスターベーション的な自分に酔っているだけという技術面の批判も多く見かけました。しかし、日本の産業は善し悪しともかく技術面が支えるもので、今(一定の金と元になるマスターが存在すれば)ここまでできるのだという証明そのものにウソはなかったとも思うのです。もちろん美空ひばりさんの歌はこんなものではない!という批判はあるかもしれませんが、AI美空ひばりの声は「美空ひばりさんの声そのものである」ことには疑いの余地はなく、しかし、彼女が直接吹き込んだ声では無い。そしてそれがかなわぬ現在において、どうそれを解決するのか?これを依頼されたから行ったにすぎないのです。
私個人はアニメ的な絵が嫌いで、初音ミクのようなAIキャラクターがAIボーカルで歌う曲は全く好まないし、見たくもありませんが、それと技術面の発展、発達は分けて考える必要があります。音楽に関する才能を今までは商業作家にならなければ発揮できませんでしたが、今や数万円の機材と、音楽的知識がそれほど無くても作曲でき、詩を紡げば、専属の歌手に頼まなくてもボーカロイドに歌わせて世に出すことができる時代です。そこから商業音楽に移行していった力のある「ボカロP」と呼ばれる方々。これからの音楽シーンは好むと好まざると関係なく彼らの曲を聴いていくことになります。今や日本の音楽に欠かせない楽曲提供者、表現者である米津玄師氏も最初はボーカロイドに歌わせている楽曲を世に出していましたし、技術的なサポートは、音楽の幅を広げ、そして一部の人だけで完結していた音楽界に風穴を開けていくのです。
NHKの倫理的な気持ち悪さ
NHKは今回「AI美空ひばり」に歌わせる楽曲を決める時に、ある程度の非難があることがわかっているからこそ、あえて秋元康氏に楽曲制作を依頼したと思うのです。そこには逃げがあって、その一定の批判を秋元氏自体も受けるが、そんな批判など問題無いと言える人を立てておけば、一定の批判は「一部の人」からしか受けないという意図もあったのでしょう。多くの商業メディアは「あれから」の楽曲そのものへの批判どころか「AI美空ひばり」そのものの批判も多くは見かけない。それは今一定の権力を持つマスメディアの最大手NHKと音楽界で彼に楯突くことができる人は(一般的な音楽活動をする限り)いない秋元康氏を立てることで多くは回避できるとも考えたともいえます。
多分ネットを見ない層にはこれらの批判は届かず、一部の新聞も奥歯に詰まったような記事しか書けません。
朝日新聞
不死鳥・美空ひばりとの再会、AIで だけど感じる不安
https://www.asahi.com/articles/ASM9T3670M9TUCVL009.html
そして、楽曲そのものに対する批判はほぼ見かけることはありませんでした。しかし、私自身はこの楽曲に関しては特に詩に関しては素直に落ちてこない、何の意図があってこの歌詞だったのか?というのは思いました。これはNHKの意図も充分入っているようにも思うのです。どこか現在を否定し、過去を賛美する歌詞。それはそのはずで、過去にしか生きていなかった人に未来の希望や展望を期待させる歌詞を歌わせることはできなかったともいえます。だから「振り向けば幸せな時代」だし「昔の歌を口ずさむ」しかないのです。そして今を生きる人に「私の分まで頑張って」としかいえない。なんと寂しい唄なのでしょう。
「振り向けば幸せな時代」と感じるような世の中を作ってきたのはNHKをはじめとする戦後の報道機関、そしてザ・ベストテンから放送作家として活動してきた秋元康氏が生きてきた時代そのものです。彼らが過去を賛美し、今を暗に批判し頑張れという歌詞は40代である私ですら腑に落ちない、そして私より若い「いい思いをしてきていない」世代は「ふざけるな」という観点しか見えない。
極端言えば今新鋭な作家陣に今の楽曲として歌わせたならもっと違った結果になったかもしれません。それが多くの批判を(特にNHK視聴者である高齢者から)受けるのを極端に嫌ったのではないか?そう思うのです。
むしろ、本当に美空ひばりさんが生きていたなら最後のシングル曲である「川の流れのように」を当時の新鋭作家であった秋元康氏や見岳章氏に依頼したように、今の新鋭作家に依頼した曲を出しただろうとも考えられます。
もう一つはNHKと美空ひばりさんの問題です。NHKが美空ひばりさんを紅白から降ろしたのは実弟の暴力団関係者との関係、そして当時問題になっていた広域暴力団の撲滅のための「スケープゴート」にされていた面があります。そもそも美空ひばりさんが幼少のうちから暴力団と関連があることは当時ですら公然の事実で、それに目を瞑って毎年紅白の「トリ」として出し続けたNHKはそれを知らなかったわけが無く、ファンからすれば今さら何を言ってるのだ?という気持ちが大きかった。
なので1979年に特別枠で出場した以外に紅白のステージに立つことのなかった美空ひばりさんを「AI美空ひばり」としてステージに立たせることに、私は猛烈な違和感を感じていたというのもあります。NHKは美空ひばりさんの歌唱映像の保持数は少なく、他局から融通して貰うしか無かった。そして、1980年代から取り組まれていたハイビジョンでの高画質映像があまり残っていないことも含めて、NHKの罪は重いのです。時の会長の「鶴の一声」そして「批判を受けたくない」体質が今も色濃く残ってるのだなとNHKに対して私は「悲しい」という感情を持っています。
同じ「AI美空ひばり」を出すにしても、もっと望まれて、こんな中途半端な批判に溢れるものではなく、出して欲しかった。そう思うのです。
美空ひばりでなければならなかった気持ち悪さ
人気歌手が過去に亡くなって、それをテレビ的に過去映像と今の歌手とのデュエットで復活させるという企画は何度か目にしています。それこそ美空ひばりさんでも行われていますし、実際の映像の中に入れ込むのですから共演する本人はブルーバックなステージで歌ってるだけであっても、完成した映像はほぼ完璧に合成されているというものです。
亡くなった人をテレビに出演させるということは、簡単なものではありません。映画やドラマなどある程度放送されることが前提であるものに関してはルールが存在しますが、新たに「出演させる」ときにどのような手続きを取るか?と考えると、その生前の楽曲管理、著作権管理を行う団体、個人がしっかりしていることが求められます。権利者が複雑で同じ映像しか流れない人は思い当たるところです。そんななか美空ひばりさんはほぼ全て息子(養子)である加藤和也氏が管理していますので、このあたりの話が非常にやりやすかったという面があります。また、加藤和也氏の保管していた美空ひばりさんの声のテープがこの復元プロジェクトに大きく関わるなど、NHKとの関係性も良好であったという面もありそうです。
もちろん日本歌謡界の偉大な歌手である美空ひばりさんは、ある一定の年齢以上の方なら知らない人がいない知名度を誇り、誰もが自分なりの美空ひばり像を持つ。そのような歌手も多くはないということもあります。
今回NHKはどのような結果になっても、一定の批判があろうが、賞賛があろうが物議を醸し、それを日本中の人が知る「バズる」ことをわかっていて、そしてそれを目的に小出しにしていったようにも思います。視聴層が限られるNHKスペシャルで技術面も含めたお披露目をし、11月には「うたコン」で放送し歌謡曲が好きな一定の層に公開、そしてネット映像として著名人がAI美空ひばりを見た感想を言う「メモリアル映像」を公開と都度世間認知を上げるための種まきをし、そして紅白歌合戦で公開。これにより、少なくとも見たことがあるだけで無く、一定の「そういうことをやってると知っている」層を含めれば日本国民の多くの層がこのプロジェクトを知ることになります。
つまりはNHKが自らの権力、マスメディアとしての力はまだあるんだという「ネタ」としても美空ひばりを使ったという意味にもなります。だから美空ひばりでなければならなかった。そして、批判の声を上げることすら「情報拡散のネタ」としている面がある。批判されようがそれはNHKではなく、技術面の不安感であったりという方向に向く、最初から賛否がある紅白の批判など痛くも痒くもなく、結果的に情報を知らしめたというNHKの権力を誇示したような面も見え隠れするわけです。
そして、このプロジェクトにNHKも金銭面の負担をしましたが、一度作った映像を何度も使用することができ、当然本人から文句を言われることもなく、しかもCDも売れる。年末のレコード大賞などでも当然その話はまた出てくるでしょうから、そのときはNHKがTBSに「AI美空ひばり」を提供することも行われるでしょう。
「AI美空ひばり」はこれからもNHK専属の歌手として使い倒すぞという意思も感じられる。それもまた気持ち悪く、きっと技術者的にはそんなつもりで作ったわけではないという感覚もあるのではないか?こう思ったりもするのです。
AI美空ひばりで感動した人
批判ばかりがクローズアップされたAI美空ひばりですが、それでもあの映像を見て、まだ動きも拙く、私個人的には歌声はまぁ良いところいってる印象ですが、その批判もよく見ましたが、実際に見て、ああ、美空ひばりが帰ってきたと涙を浮かべて視聴したという人の話も聞いています。
前回の記事で書いたテレビでのコメントでの加藤和也氏の「ここまで空いた時間の隙間を埋めて貰った」という表現もそうですが、若くして旅立った美空ひばりさんを偲び、もし生きてたらどのような歌を歌っただろうと考えて、一つの結果として見せてくれたことは、これも誰しもができることではなく、NHKという巨大な組織だからこそでもあります。
だからこそ、批判を回避するもう少し丁寧な説明だったり、多くの人が喜ぶ形での復活劇にできなかったのかな?という面はあります。死者の復活はどのような形でも許さん!って方じゃなければ、一定の技術検証や番組企画としての復活劇はそれほど批判されるものばかりとも思わない部分です。むしろ、技術の進歩が「声」という部分を後世に残し、誰かの支えになる可能性を考えたいなとも思うのです。
さいごに
DMM VR THEATER
世界初!3DCGライブホログラフィック公演「hide crystal project presents RADIOSITY」
https://vr-theater.dmm.com/hide_radiosity
賛否があったhideさんのホログラムライブ、このときもタイムラインには批判が溢れていました。亡くなった方を何かしらの形で復活させると言うことはいつでも挑戦になる部分があります。必ず批判の声と向き合わなければなりません。
前回も書いたとおり私にも今でももう一度だけ会いたい、遠い世界に行ってしまった方がいますが、実は、大切な人の声って、忘れちゃうんですよ。それは否定できない。人間は忘れる生き物です。今でもはっきり思い出せると言いたいけれど、一般の人の録音や録画が残っていない人の声は、だんだんそのトーンだったり、内容だったりが曖昧になってしまう。いくら大切な人でも人間は忘れてしまう。
もし、声を復元して、なんらかの語りをしてくれた時、どのような気持ちになるのかな?
それが秋元康氏のつくった言葉でも、私はきっとその言葉に涙を抑えられない、そう思う部分があります。しかし、それが本当に必要なのか?本当は不要なのか?それは死生観だったり、お墓や仏壇の前で故人を思った時に、頭の中にささやいてくる声、それをもう一度聞きたいという気持ち。
もうひとつは、これも前回書いている声を失った「生者」の声をもしかするとこの技術で復元できるのではないか?声を失った人が元の声を復元し、もしかしたら歌えるようになるなら、それは実際にそのような状態になった人たちにとって大きな希望になるのではないか?そういう少しでも前向きな面を思いながらこの記事の最後にしたいと思います。